1. 「好き」って、こんなに不安定な言葉だったっけ?
今でこそ、「好きなことって何?」と聞かれれば、胸を張って答えられるものがいくつかある。
でも、昔は違った。
「本当にこれが好きなのか?」
「自分より詳しい人がいるのに語っていいのか?」
「飽きたらどうするんだろう」
「自分の“好き”って浅いんじゃないか」
そんなふうに、“好き”という言葉に正しさや深さを求めていた。
誰かに好きと言うのが怖かった。
好きと言ってしまったあとに、自分の気持ちが揺らぐことが怖かった。
2. “自分の好き”と“他人の好き”が違っていたから
たとえば、同じ作品を見ていても、熱の入れ方が違った。
語れる知識の量も違った。
反応の仕方も、視点も、まったく違っていた。
それを前にしたとき、
ぼくは「自分の“好き”は弱いんじゃないか」と思ってしまった。
周囲の“熱量”に比べて、
自分の“好き”はちょっと曖昧で、
ちょっと静かで、
ちょっとフラフラしていた。
だから、「これを“好き”って言っていいのかな」と、何度も心の中で確認する癖がついた。
3. 好きに“正しさ”を求めると、苦しくなる
今なら分かる。
あの頃の自分は、“好き”に対して、正解や深度を求めすぎていた。
- 好きなら、ずっと熱中してなきゃいけない。
- 好きなら、誰よりも詳しくあるべき。
- 好きなら、浮気しちゃいけない。
でもそんなの、無理だった。
気分屋な日もあるし、急に冷めることもあるし、
他のものに心を動かされる瞬間もある。
“好き”って本来、もっと雑で、もっと自由で、もっと気まぐれな感情だったはず
4. それでも、「好き」って言ってよかったと思える今
正解なんてなくてよかった。
全部が中途半端でも、浅くても、長続きしなくても。
それでも、「好き」と言った瞬間が、自分の心に火を灯していたのは事実だった。
たとえその炎が、小さくてすぐ消えそうだったとしても、
「好きって言えたこと」そのものが、自分の輪郭をひとつ作っていた。
いま、何かを好きになったとき、
「それってどれくらい好きなの?」なんて思わなくなった。
- 語れるかどうかなんて、どうでもいい。
- 一時的でも、その瞬間に心が動いたなら、それでいい。
- 誰かより詳しくなくても、“自分の好き”として大切にすれば、それは本物だ。
● 最後に
「好き」って、もっと自由でいい。
形にならなくても、長続きしなくても、誰より詳しくなくても、胸を張っていい。
たった一瞬でも、
自分の心を震わせたなら、
それはもうあなた自身の大切な「好き」だ。
正解を探すよりも、
今、心が動いたことを大事にしてほしい。
最終更新日:2025年4月29日